2017年4月20日

投資についての“いやな感じ”



今回はちょっと戯言めいたことを書きます。投資ブログなんかを書きながらこんなことを言うのは変なのですが、どうも最近、投資について“いやな感じ”がしてなりません。というのも、なんとなく世の中の一部で投資ブームのような動きがあって、「投資しなければならない」といった風潮がどこかで醸成されているような気がする。それは別に悪いことではないのですが、中には「ちょっと軽く考えすぎではないか」と思ってしまうような発言も耳にすることが増え、それでモヤモヤとした心配が湧いてきました。その理由を明確には言語化できないので、やっぱり“いやな感じ”としか言えないのです。

今年から個人型確定拠出年金(iDeCo)の加入対象者が拡大されたり、来年から積立NISAが始まるなど個人投資家がコツコツと少額から投資できる環境が劇的に整備されようとしています。いずれも国が制度を整備しているわけであり、国家として投資を後押ししているわけです。実際に非常に有益な制度ですから、特にiDeCoなどは私も積極的に活用しています。これから投資をしようと考えている人に対していくばくかでも参考にしてもらえれば幸いだと、ブログでも実際にどのような運用をしているのかを正直に書くようにしてきました。私がインデックスファンドによる国際分散投資やiDeCoを始めようと思ったのはわずか5年ほど前ですが、当時は個人ブログくらいしかまともな情報源が無かったからです。

でも、あの頃に比べると、最近は世の中の雰囲気が微妙に変わってきたように感じるのです。国が制度整備を進めたことも影響しているのでしょうが、なんとなく「投資しなければならない」といった空気が醸成されているように感じる。老後不安など現役世代が抱える問題を考えると、そういった雰囲気が出てくるのは仕方がないことなのですが、問題の解決策を「投資」だけに求めるような雰囲気すらあり、それがなんとも“いやな感じ”なのです。

例えば最近、投資について特集するテレビ番組が増えてきたような気がします。ところが、そこで登場する発言を聞いて驚くことが少なくありません。例えばアクティブファンドの積立で子供の教育資金を作ったとか、家計の足しにするために投資を始めるとか。でも、「それって、ちょっと違うんでない?」と思ってしまう。私のように(当時は個別株しか保有していませんでしたが)リーマンショックなどでリスク資産が8割減とかになった経験があると、子供の教育資金とか、家計のために投資をするという感覚が信じられない。ようするに「投資というものを、ちょっと軽く考えすぎなのでは」と思ってしまう。

今も昔も個人の投資の大原則は「余裕資金でやる」ということです。余裕資金というのは突き詰めると「全損しても生活が困らない資金」ということです。それほどリスク資産への資金投入というのは、重いもののはず。はたして子供の教育資金や家計のための資金は「全損しても困らない資金」なのですか? そして何より、軽々に人に投資を勧める人も、そういったことの重大性をどこまで深く理解しているのでしょうか。ようするに、なんとなく世の中が「投資した方がいいよ」あるいは「投資しなければならない」となると、どちらもはたしてどこまで投資について納得も得心もしているのか心配になるのです。

「じゃあ、お前は積立しているインデックスファンドやiDeCoの資産が全損しても困らないのか」と言われれば、困ることは困ります。でも、それで老後の生活が完全破綻するほどは困らないようにしようと思っています。もし積み立てたインデックスファンドやiDeCoの資産が全損すれば、老後はわずかばかりの公的年金とささやかな貯金を取り崩しながら、体が動く限りはバイトもする立派な下流老人として生きていこうと覚悟しています。最悪の場合は生活保護のお世話になっても構わない。それは憲法で保障された生存権ですから。逆に言うと、そういった一種の覚悟があるからこそ、そうならないための努力としてリスクを承知で投資しているわけです。それが私の言う“納得も得心もして”ということです。

私は常々「日本でも庶民の間で投資が当たり前のことになり、投資について自然と話すことのできる世の中になればいいな」と思ってきました。ブログを書きだしたのも、そういった環境ができるのに少しでも役立てばと思ったからです。でも、私の考える「投資が当たり前のことになる」というのは、「投資しなければならない」とみんなが考えることではありません。別に投資なんかしなくてもいいんだけれども、お金の使い方・蓄え方のひとつの選択肢として投資が普通に認識される世の中になればと思っているのです。そしてそうなるためには、投資のリスクに対してみんなが正しく理解することが欠かせないのでは。それができてこそ、納得も得心もして投資している人同士はもちろん、投資している人と投資していない人の対話が成り立つはずです。なぜなら、「リスクをとらないこ」と「リスクをとること」それぞれの正しさへの認識が、相互理解の前提だからです。

「投資しなければならない」という言い方は、しょせん「投資なんかしてはいけない」という考え方の裏返しでしかありません。だからリスクに対する理解が不十分なままで「投資しなければならない。投資するべきだ」と言う人は、実際に大きな損をすると簡単に「投資なんかしてはいけない」という風に転向するのは当然のことです。それではいつまでたっても投資が「普通」のこととして世の中に受け入れられません。そして最近は、なんだか「投資しなければならない」という声が大きくなってきたような気がする。それがどこまで投資のリスクに対して深く納得も得心もした上での発言なのか分からないと、やっぱり“いやな感じ”がするのです。

全くまとまりのない文章をグダグダと書いてしまいました。なぜグダグダになるのかというと、投資ブログを書くということは、やっぱりどこかで人に投資を勧めることになってしまうから。言っていることと、やっていることの整合性がとれていないのではないかという自己嫌悪すら感じてしまいます。その意味では、私のブログも“いやな感じ”の一端を担ってしまっているのかもしれません。だからこそ、このブログでは投資を人に軽々には勧めないけれども、私の投資行為の実態と、そのときに感じていること、考えたことを正直に書くようにしています。そうすることで、投資したいと思う人が投資という行為の意味について納得も得心もする材料として参考にしてくれば、もうそれだけでブログにとっては十分すぎるほどの果報だと思っています。

関連コンテンツ